陰蝕の鬼 - 五拾 -



 ◇ ◇ ◇


―  いくら悔やんでも悔やみきれない。


―  何故、あの日、自分は小屋を飛び出してしまったのだろう?


真砂は部屋の隅の暗がりに座していた。
時折、戸口に落ち着かぬ目をやっては、また暗い床の板の目の上に視線を落とす。
朝からそうして、もう何時かが過ぎていた。
心は塞ぐばかりで、晴れることが無かった。
顔つきばかりは平静を繕いながらも、瞳の奥は暗く虚ろだった。





 ◇ ◇ ◇


火が付いたように、真砂は正之助を詰った。
正之助が、乱丸に念者になってくれと申し出、乱丸がそれを受けたのだ。


「恥を知れ!」


真砂は正之助を口汚く罵った。
それまで真砂は乱丸の関心を、一身に受けているのだと信じていた。
乱丸の愛情を疑ったことはない。
肉親故に、たとえ契は交わせずとも、乱丸は自分一人のもの。
真砂は幼い頃より、一心にそう信じてきたのである。
物心つく頃には、すでにひたすらに兄の背を追うていた、
片時も傍を離れたことはない。
兄の掛ける言葉を杖にも糧にもし、辛い稽古も日々の苦労も乗り越えてきた。
真砂にとって乱丸は、知りうる世界の全てだった。
その乱丸が、正之助の念者になる。
真砂は、足下の地面が奈落に崩れ落ちるような感覚に立ち眩んだ。


正之助とて、それまでは家族も同然、共に育ち、
助けられ、兄とも慕いもした相手である。
だが、真砂は乱丸を失うことの胸の動揺を、抑えることができなかった。


正之助には、既に贔屓の客も多くいれば、念者の名乗りを上げるものも後を絶たず、
よりどりしてもまだ余りある程に恵まれ、乞われる身でありながら、
よりによって乱丸を、しかも乱丸は念者の名乗りすら上げていなかったというのに、
年少の立場でありながら、弁えることなく正之助は乱丸を名指しした。


乱丸が、真砂に対して抱いているのは、肉親の情。
『真砂は己が子供ぞ』と、乱丸が言ってのけ、
その通りに、真砂に対して微塵も色気を感じていないのも知っている。
だが、正之助は、乱丸を想う真砂の気持ちを知っていた筈である。
なのに何故に乱丸を巻き込んだのだ?
真砂の怒りの矛先は、全て正之助に向かった。


「何もお前の兄を奪うわけではない」


下手に出て、宥めてかかる正之助に、真砂は怒りを更に燃え上がらせた。
止める正之助の腕を振り切り、怒りに任せて稽古場を飛び出した。


深夜、灯り一つない夜道に彷徨い出た。
まさか出奔まで考えていたわけではない。
きっと、自分の身を案じて乱丸が追って来てくれる。
子供らしい傲慢さで、真砂は夜道を闇雲に走った。
元々、それほど遠出をしたことのない身。
程なくして、遣いで時折通りかかる橋の袂まで出ると、櫓の方を顧みた。
辺りは濃い闇に包まれている。
手前の家屋の影に隠れて、もう芝居櫓は見えぬところまで来ていた。
月のない、真っ暗な夜だった。


正之助は、自分のことを乱丸に知らせてくれただろうか?
乱丸は探しに来てくれるだろうか?
正之助には、酷く言い過ぎたかもしれない。
正之助に憎く思われ、このまま捨て置かれたらどうしよう。


一人になった途端、真砂の胸に不安が押し寄せてきた。
一人でいる夜の闇が恐ろしい。
だがそれとは別に、腹の底で煮え滾った怒りも、容易には覚めそうになかった。
この疝気を沈めることが出来るのは、乱丸ただ一人だった。


―  御ちゃん。
   早う来ておくれ。


真砂は、暗い川面に目を転じ、乱丸が迎えに来るのを一心に待った。
川は水音一つたてず、重苦しい空気を湛えたまま、ゆっくりと闇を押し流していた。




 ◇ ◇ ◇


―  あの時、小屋を飛び出さなければ…


真砂の中で、何度も繰り返されてきた言葉だった。


―  せめてあの時、すぐに櫓に引き返していれば…


―  下らぬ意地をはったばかりに


真砂の心は沈んでいた。
それはこの二年余りの間、這い上がることすら叶わなかった泥の沼だった。






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 次回更新は、本稿更新 翌日 12:00 です。 
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